平成16年、第13回大原富枝賞
     「随筆」部門に投稿した原稿です。

『出会い』
 人生の過程(旅)では大勢の人々との出会いがあります。人生はそれらの人々の出会いによって生かされているのだと、この年(七十歳)になってしみじみと思います。
 六歳にして出会った学友とは今も親交が続いている。
  小学校、中学校の九年間には色々な先生との出会いがあり、誰にも忘れることの出来ない先生は一人や二人はいるはずです。
 私も二人の先生との出会いを今でもはっきりと覚えてる。
 その一人は、本県(高知県)のスポーツ殿堂入りをしている横山隆志先生です。先生は、昭和七年第十回ロサンゼルス・オリンピックでの水泳八百メートル自由形リレーのアンカーを勤め、 本県に初の金メダルをもたらした人物です。
 先生に習ったのが終戦の年で、私が小学校六年生の時です。私は、子どもの頃はワンパクで一個連隊を引き連れ、 町内せましと飛び遊んでいた。その集まり場所はお寺で、楠の大木の下でした。当時の坊さんと私は犬猿の仲で、いつも箒を振り上げられ寺から追い出されていた。 寺の本堂の屋根には毎年スズメが巣をつくります。その子スズメを捕るのが楽しみでした。
 ある日、昼食を終えての登校途中(学校の近辺の子どもは昼めしを家に食べに帰っていた)本堂の屋根に二人を上らせていると突然窓が開き、 「こらー!」と大声が寺中に響き渡ったと思うや否や、住職が本堂を飛び出し、ゲタ音高く石段を駆け下り学校へ直行した。
 当時は、昼休みに高等科の者が掃除をしていた。その後で校長が、時々全校生徒を校庭に集め、訓辞をしていた。訓辞が終わると校長が「昼休みに東光寺に行っていた者は教員室へ来なさい!」 と言いった。さあ、大変です。十人程集まると、校長さん眼光鋭く開口一番「お前たち何をしおったか!バカヤロー!」と怒鳴ると同時に、 ゲンコツが飛んできて頭へめり込んだ。最初にゲンコツを食らった私の頭には、最後の者が終わった頃には大きなコブが盛り上がっていた。
 学期末には、担任の先生が一人一人の生徒を呼んで訓辞をします。其の折、「お前さんは東光寺のスズメの件で校長にゲンコツ貰ったそうだが」と先生が言ったので、 私は一瞬ひやりとした。先生は「其のスズメの子を捕ったのか」と訪ねた。私は「いいえ、もう少しの所で見つかり、駄目でした」と残念そうに答えると、先生曰わく 「男が一旦捕ると決めたら捕らいでどうする」と私の目を見た。私は、当然怒られると思いきや、先生の目は涼しい眼差しでした。その先生の優しい眼差しを私は忘れていません。
 先生とは、もう一つの思い出があります。八月十五日終戦を迎え、復員して来た若者たちによる相撲が盛んになり、ある日、 学校をサボり仲間と森(現在の土佐町)へ相撲大会を見に行った時のことです。一番前の席へ出ると四本柱にどっかりと座っている先生とバッタリ目が合った。 何で水泳の先生がこんな所に居るのかと思ったが、「後は野となれ山となれ」覚悟を決め最後まで相撲を見た。
 翌日教室で先生と目が合うと先生は、「しばらく廊下に出て立っておれ!」と言いった。昼前のことだったので、私はそのまま昼飯を食べに家に帰って、午後は授業に出ていましたが、 それでも先生は何も言わず、知らぬふりをしていた。
 先生が本山町に赴任してきたことで水泳が取り組まれ、吉野川で水泳大会も行われた。
 私は、平泳ぎで一位を取った。 先生にひと夏水泳を教わったことで翌年、中一の夏、同級生四人と上級生でチームを組んで長岡郡中学校水泳大会にでた。会場は今の南国市の農業学校の五十メートルプールでした。 初めてのプールでの泳ぎで嬉しかった。結果は、背泳ぎ一位が一人、潜水一位が一人で高成績を収めた。
 思い出に残る先生はもう一人います。五年生の秋のことです。 当時、学校の脇に教頭先生の畑があり、そこに柿の木があった。ある日の昼休みに、その柿の実が甘柿か渋柿かという話になり、論より証拠と私が柿の木に登り、 かじって甘柿を証明して見せた。ところが、嫌な先生に知られて呼び出され、ビンタを食らって吹っ飛んだ。「かじった柿を取ってこい!」と凄まれて取って来ると教員室へ連れて行かれ、 柿を高く掲げたままで立たされた。暫くすると手が怠くなり、しびれて困まった。其処へ、四年生のときの担任のI先生が来て、 「ほー、この柿をかじったのか」と言って取り上げ、小声で「手を下ろせ」と言ってくれたので、私は「助かった」と思った。先生は柿を眺めながら独り言をいい、 感覚の無くなった私の手をしばらく休ませてくれた。そして、「それ」と言って柿を手に返すと、校長の所へ行き、ひそひそと何かを話していた。すると、校長が来て、 「その柿を持って教頭先生の所へ行って誤って来なさい」と言われたので、教頭先生の所へ誤りに行くと、「もう良いから、柿は君にやるので始末しなさい」と言ってくれた。 その柿の実の味は未だに忘れていません。
 ゲンコツやビンタから学んだ事より、優しい眼差しと温情から学んだものは大きく、のちの子育てに役立つことになりました。
 そして社会に出れば更なる多くの人々との出会いがありました。
 私は戦時下、軍用車の運転手さんと仲良し(出会い)になり時々車に乗せて貰っていたことから運転手に憧れ、 十五歳でトラックの助手となり、十八歳で運転免許を取り、二十歳でタクシードライバーになりました。六十歳の定年まで四十年間プロドライバー(特別優良運転者の受賞も受けた) として運良く過ごすことが出来た。
 とりわけ、一九六〇年代、高度成長・所得倍増が叫ばれ、六百五十万人の人々が大都会へ出ていった。私もその一人として大阪に出ていったのです。 田舎では呑気なハイヤー運転手が一転してタクシー労働者となり、多くの出会いが待っていたのです。太田薫・岩井章が率いる「総評」傘下の全自交労働者として鍛えられ、 労働運動に生きがいすら感じて突っ走りました。
 その間、多くの本とも出会いました。エドガースノー著「中国の赤い星」との出会いは、七十年の第一次労働者訪中団の一員として訪中、 当時の周恩来首相との会見へと結びつきました。広瀬隆著「東京に原発を」との出会いは「反原発」市民運動に参加することになります。
 その中でも、 福岡正信著「わら一本の革命」と有吉佐和子著「複合汚染」、レイチェル・カーソン著「沈黙の春」・安藤昌益著「自然新営道」との出会いが自然と共生を求め第二の人生 (定年後)を農ある暮らしにと結びついて行くのでした。
 「袖すり合うも他生の縁」と申しますが、不思議にも奇跡的とも言える出会があります。定年を二年後に控えた正月に帰省し、 定年後は郷里に帰り百姓をすることを身内に伝え、農地探しの世話を頼み、四日の朝、早立ちをして、福岡先生の自然農園を見学させて頂くために愛媛県大平に向かいました。
 だいたいの見当は付けて行ったのですが、なかなか見つかりません。冬の日は短く、林の中の日差しは日暮れを感じ、もう駄目かと思いながら、最後にもう一つ別の道に入りました。すると、 道端に車が止めてあるのに出会いました。もしや!と感が働き、車を止めて坂道を登って行くと、道端に落ち葉に埋もれた「自然農園」と書かれた古い板切れを見つけました。「ここや!」 と大阪弁で随分と大きな声を出した記憶があります。
 やっと人一人が通れる横道に入って行くと、ばったり人に出会いました。その人から、「こんにちは」と声を掛けられ、私も挨拶を交わし、 「失礼ですが、福岡正信先生の農園をご存じないでしょうか」と訪ねると、その方は、「私は福岡先生と親しい者です。それでしたら、 私が農園をご案内しましょう」と言って園内を案内してくれました。山小屋の軒下に咲いた水仙の花が私を迎えてくれました。
 私を案内してくださった方は、松山ベテル病院副院長の増田先生でした。そのご縁で、後日福岡自然農園でのイベントに参加でき、 農園の山小屋「小心庵」で囲炉裏の火を囲み福岡先生と夜遅くまで語り合うことが出来ました。
 その後、市民運動の仲間から川口由一著「妙なる畑に立ちて」の本をもらい、 その縁(出会い)で平成四年三月一日から一年間、奈良の川口先生の自然農の合宿に参加することになりました。
 そこで出会った仲間と、平成五年に京都府の北の果て綾部で自然農に取り組むことになり、その縁で、綾部で大本教創始者出口王仁三郎のお孫さんに当たる出口三平氏と出会いました。
 そして、平成六年の春、ふるさと回帰(定年帰農)を果たす事となりました。
 早いもので、連れ合いと出会ってから四十七年が経ちました。今二人して、土と付き合って(十一年目)います。
 人それぞれ人生の旅の出会いは、ときめき、喜び、感動の出会いです。そこから、友情、夫婦、師弟関係が生まれ、希望、正義感、勇気を育み、行動に結びつき花を咲かせ、 実を結ばせることになるのでしょう。
 私は今年七十歳、残された人生の出会いを楽しみに生きて行こうと思います。
  「回り道して持つ鍬に男女の笑み」
       回り道もまた人生の旅の思い出  完