真美農山北村自然農園

真美農山北村自然農園へようこそ

        真美農山北村自然農園の紹介 真美農山

  私は、1994年4月(平成6年)故郷に60才定年で帰農しました。
  定年後の田舎暮らしは、農地取得のできる30アールもあれば広すぎるくらいです。でも、あえて棚田農園に取り組んでいますのは、 郷土が農村が棚田が寂れ行く状況に心が痛み、農村景観・風景の再生、棚田の復活、環境にやさしい有機農業に取り組んでいます。
  農園は、坂本龍馬の育った高知市から真北へ20q、四国の(ヘソ)真ん中に位置し、高速高知道、大豊インターから「四国三郎」吉野川の上流10q、 本山町役場の所在地から支流を南へ4q山に入り込んだ所です。 海抜450m、奥から谷川が合流した山合いですが、空は広く北に手入れの行き届いた 大石集落林(猯の山)を背に、南に高知県でも典型的な棚田が広がっています。冬の朝日が8時15分に昇り、日没が4時20分・夏は(高知での早い日の出は4時55分) 20分遅れで目の高さで朝日が昇ります。とりわけ、快晴の日の出は扇状に西に広がる棚田(里)を照らす光景に自然と両手を合わせ拝礼します。 夏は5時には山林に日が入りますので夕方は涼しいです。春と秋には西にそそり立つ天狗山に日が落ち、様々な夕空を見せてくれます。 自称、日本一の幸せ者と感じる時です。それに、湧水が生活水です。その湧水で、稲と野菜を育てています。自称、集落一の環境での百姓です。 真美農山は、(猯の山)を捩って(真に美しい山裾で農を営む)「真美農山自然農園」と付けました。
  H6年の秋に農地30アール・山林約100本(50年生)・原野6アール、それに湧水の水元を要した土地を購入しました。 現在は、農地1.5ヘクタール・果樹園などを含む総面積約3ヘクタール(3町)の農園になりました。  

 住み家は、1.15ヘクタール (一町一反五畝)の田・畑・果樹園(栗・柿・桃類・梅・ブルーベリーなど)の中央に位置し、少し離れた所に1.5ヘクタールの自然農体験道場、他に15アール・ 20アールの田畑・10アールの栗園と5アールの竹林があります。全て無農薬・有機栽培です。
 園内には丸太小屋があり、ワーキング・ホリデー・wwoof japanのホストもやっています。夜は、我が家の明かりを消せば、星と月の明かりしか見えませんので 「スター&ムーン・ガーデンロッジ」と名付けています。
 今、取り組んでいますのは「センスオブワンダーガーデン」です。ガーデンにも交流小屋があります。ケヤ木の大木2本とクスの木の大木1本があり、ツリークライミングもできます。
★本山町が大石の棚田復活に「センスオブワンダーランド」農村景観・風景の再生・都市との交流の里づくりに4町歩ほどを、ステップワンとしてクラインガルテン(滞在型市民農園)10戸に取り組んでいます。



 農的な暮らしにたどり着く足取りを紹介します。
自然農

 私は、1960年高度成長・所得倍増の音頭に踊らされ、高知県の片田舎(本山町)から大阪府のT市にタクシードライバーとして出て行きました。当時、 27歳。連れ合いと長女4歳、 長男2歳を引き連れての上阪でした。当時1万3千800円という歌が流行した時代でした。都市のドライバーの稼ぎは、4万〜5万も取ることができました。途中、 労働運動に足を突っ込み、それなりに充実した日々を過ごしました。気が付くと定年を迎える歳になっていました。さて、私は、「定年後どう生きていくのか」 という事を考えざるを得なくなり、謎解きの結果、『これからは、自然と優しく付き合いながら生きて行く百姓になる』ことを決めました。

 決めた理由を少し述べます

 小学校2年のとき戦争が始まり、 父がやばいと思ったのか、田を40アール借りて小作農業を始めました。中学を出るまで8年間農業を手伝いました。 子供にはなかなかの苦労でしたが、苦しい中でも収穫の喜びを味わっていたこと。激動の70年代に、 福岡正信先生の著書「緑の哲学」 ・有吉佐和子著「複合汚染」・レイチェル・カーソンの「沈黙の春」・安藤昌益の「自然真営道」に出会っていたことです。
 さて、定年後は百姓と決めると、なんだか体に力が沸いてきて、あれもこれもと忙しくなってきました。新聞、テレビは農業関係ばかり見るようになり、 農業関係の本を求めて本屋通いが始まりました。「そうだ!今度の正月(平成4年)は田舎に帰って土地を捜してこよう。ついでに福岡先生の自然農園を見て来よう。」と計画を立て、 毎日が意識的な行動になりました。


  私としては久しぶりの里帰り、親戚、兄弟へ挨拶に行き、定年後の帰農の意志を伝えて農地の借地・取得の協力を頼み、正月4日の朝、 早立ちをして愛媛県大平の「福岡自然農園」に向かいました。大体の見当はつけて行ったのですが、 なかなか見つからず,諦めて帰路に付く途中、車が止めてあるのに気が付き、「もしや!」と感が働き、 車を止めて歩いて坂道を登って行くと、 道端に落ち葉に埋もれた自然農の板切れを見つけました。「ここや!」と大阪弁で声を出した記憶があります。一人通れるほどの横道へ入って行きました。しかし、 それらしき農園は見つからない。でも、自然農の看板があったからには間違いないと奥へ進んで行くと、突然人と出会いました。
出会った方から声を掛けられ、事情を説明すると、その方が「私は福岡先生とは親しい者です。それでしたら、私が農園をご案内しましょう。」と言って案内してくださいました。 その方は、松山ベテル病院副院長の益田先生でした。このご縁で、後日農園でのイベントに参加でき、福岡先生と「小心庵」で囲炉裏を囲んで夜遅くまでお話を聞くことが出来ました。 後でつくづく考えるにつけ、「袖スリ合うも他生の縁」という言葉がありますが、あの出会いを不思議に思います。
 大阪に帰ると、「反原発」の仲間に奈良の川口由一先生と知り合いの方がいて「妙なる畑に立ちて」の本を頂くことになり、そのご縁で、平成4年3月1日から1年間、 奈良の川口先生のもとで自然農の合宿に参加することになり、そこで一緒に学んだ仲間と、平成5年京都府の北の果て綾部で自然農に取り組みました。
  定年最後の一年は、実に良い体験と充実した一年となりました。
 田舎の義兄から二反の田を借りたとの電話があった。実兄から家を借りた間取りを書いた手紙も届いた。後は定年を待つのみとなった。
  1996年3月20日、タクシー労働者として最後の勤め。7時出勤で、19時間勤務の隔日出勤を今日は8時間有給を取り、退社は4時半。 今日は事故だけは起こさないことを心がけ勤める。初めて「特別優良運転手」のバッチを着けて乗務し、4時半無事に入庫する。プロドライバーとして、 今日ほど胸のパッチを重く感じたことはなかった。愛車をねんごろに最後の洗車をする。
 昼間は車庫は空っぽで、事務所の方々に最後の別れを告げて帰宅。湯船に入り、33年間の垢を洗い落とすと同時に、第二の人生の産湯となりました。 夕食はささやかではあるが鯛のお頭付きで、連れ合いとビールで乾杯。なんといっても、明日から仕事勤めに出でなくても良い解放感の喜び……。
 明けて21日からは休む間のない分刻みの忙しさ。1,160戸の団地の自治会長をしていたその任期が3月で終わるため、総会を3月末の日曜日に控えており、 その段取りと、田舎で借りた田圃の田役が4月10日。それまでに、田舎に引っ越しをしなければならない。その荷造りが大変。そんな中、仲間が手伝ってくれ、 送別会も盛大に行ってくれ、夜遅くまで語りあった。  4月5日一人で田舎へ帰り、借りた家の掃除など引っ越して来ても生活が出来る準備などで、引っ越しのために大阪へ帰る時間が無く、 連れ合いと仲間の助けで引っ越しの荷物が届く。4月10日、田役にでる。いよいよ土(神)との付き合いが始まった。